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人物と歴史
江戸・明治・大正・昭和と激動の時代を、風に吹かれた雲のように生き、
そして「アジア」に厳然とした足跡を残して、従容と天に帰っていった
1人のサムライを、平成のこの時代に忘れてはならないと強く思っています。

近代日本史を日本人は疎かにしがちですが、江戸末期や戦国時代以上に、
もっと日本人が苦悩し、大きく揺れ動きながら、今日の基礎を創造した時代です。

戦後の何かに偏した歴史への態度ではなく、戦前・戦後も変わらぬ「歴史」の意識の中でわれわれは頭山満翁を通じて、日本及び日本人の「生き方」を見つめなおしてみたいと思うのです。
 
様々な角度からの頭山満研究を進めてまいりたいと考えております。

それぞれ題名をクリックしてください。

■ 「戦後六十年を経過して
(葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』より)葦津泰國氏

■ 「頭山家の養子  広瀬仁紀
「風雲の異端児」からの抜粋ですが、頭山満翁の横画が抜群に描かれていますので載せました。

■ 「頭山満を語る 進藤一馬
(財団法人・尾崎行雄記念財団の明治百年講演から)
玄洋社最後の社長・元福岡市長・元衆議院議員の昭和44年のご講演です。 
身近な方からの頭山満翁についての話は参考になります。

■ 「頭山満翁最後の戦い
(玄洋社記念館の機関紙より)
87歳の頭山満翁は、最後の生命力で、日本と中国の和平に立ち上がりました。
玄洋社のメンバーである緒方竹虎中野正剛広田弘毅が動きます。

頭山満翁の生涯を簡単にわかりやすく纏めてみました。
ご一読いただければ、右翼、黒幕、超国家主義者等のレッテルが無意味であり、1人の日本人として真摯に雲のように生き抜いたサムライの姿が浮きぼりになってきます。
■はじめに
東洋のルソーと呼ばれた自由民権運動家の中江兆民は、頭山満翁のことを「一年有半」という著書の中で、
「頭山満君、大人長者の風あり、かつ今の世、古の武士道を存して全き者は、独り君有るのみ、君言わずしてしかし知れり、けだし機知を朴実に寓する者といふべし」
と評しています。
中江兆民と頭山翁が民権派の集会で出会ってすぐに意気投合し、三日三晩も飲み明かしていたという事実を聞くと、いくらか<違和感>を感じられる方もおられるかもしれません。

けれど、それは戦後の左翼、右翼というステレオタイプの決め付け方が邪魔をしているせいでしょう。とりわけ「玄洋社」の前身としてあった「向陽社」は当時の板垣退助が設立した「立志社」に匹敵する、いや一時期はそれ以上の「自由民権運動」の政社であったのであり、植木枝盛と頭山翁の交友も含めて、「権力におもねらない在野精神」はなんと、大杉栄伊藤野枝にさえも資金援助をしていた事実にまで繋がり、実に新鮮な驚きをわれわれに与えてくれます。
民権主義か国権主義かという二者選択的な視座では、全ての日本人が国家の未来を真摯に考え模索していたという「ナショナリスト」であった時代の空気を確実に捉えきれないとしかいいようがありません。


中江兆民
そうした、戦後の「冷戦構造的思考」から脱却して、「明治日本」の息吹に同化しながら、あらためて「頭山満と玄洋社」にまなざしを向けてみると、今日の政治家が失ってしまっている「名利を捨て公に尽くす気概」というものをひしひしと感受することが出来るのです。
呉竹会・アジアフォーラムは、そうした「頭山精神の顕彰」という作業を一つの課題として掲げています。そのことは、そのまま「近代日本史の正視」というもう一つの課題に繋がり、さらに、三つ目の「アジアの中の日本」という、古くて新しい課題の前にわれわれを導くのです。

そして、それらを正しく見据えることこそが、「しなやかな竹の精神」の復権へ向けた志操の練磨 だと考えています。

頭山翁と玄洋社の活動は、決して「右翼や超国家主義」として括ることなどできません。もっと深く「歴史的意義のある存在」だったとわれわれは確信しています。われわれは、ぜひとも、先入観を捨てて先人の足跡を見つめなおしていただきたいと思っています。

最後までご一読くだされれば幸甚です。


■エピローグ
1946年 GHQの調査分析課長であった、カナダ人の歴史家「ハーバート・ノーマン」は「日本政治の封建的背景」という著書の中で、「福岡こそ、日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」と記しています。
そして、「孫文らを厚遇したのは日本の利益につながることを期待していたからだ」とまで一方的に裁断する彼の考え方がベースとなって、GHQ「超国家主義団体解散指令」の、代表的な対象団体となり、反動的な膨張主義的圧力集団として、多くの人々の意識に刷り込まれて来ました。

その結果、敗戦から60年を経た今日でさえも、頭山満と玄洋社を語ろうとする時、何がしかグレーなイメージがわれわれの前に立ちはだかるのです。

しかし、何処を見ても玄洋社が好戦的な侵略主義の集団である事実はなく、戦後封印されて来た活動のひとつひとつを振り返って見ると、あの時代にはこんなことがあったのかと、われわれに新鮮な事実との出会いによる驚きをさえ、もたらしてくれるのです。

まして、アジアとの連携を求めての、時には権力と対峙する危険を冒しつつ、朝鮮の金玉均、中国の孫文、インドのラス・ビハリ・ボースなど、アジアの独立運動家たちを支援して来た姿には、そこに、失うものは多くてあっても、いかほどの利益の還元があったというのか、とむしろノーマンの歪んだ感覚に憤怒すら覚えない訳にはいかない足跡を見出すのです。

最後の玄洋社の社長となり福岡市長にもなった進藤一馬は「実際の玄洋社は昭和11年からは社団法人となり、政治結社としての実践団体ではなかった。名残りをとどめたのは付属道場だった柔道場・明道館だけだった」と回想しています。

その後カナダ外務省に戻ったノーマンが、「ソビエトのスパイ」だと疑われて、大使として赴任先のエジプトで自殺をした結末を見れば、いかにも彼の強烈な固定観念の拠って来るところがそこにあったのかとさえ得心せずにはいかないところです。

ノーマンには、日本人が感じる西郷隆盛の魅力はわかるまいというのが、われわれの率直な思いです。決して死者に鞭打つことは好ましくはありませんが、しかし、今こそ正しい「歴史の検証」が求められている時期に来ていると思います。

そこで、われわれは曇りない視点で、「頭山満の人と足跡」を、ここでふりかえっておきたいと思います。

ただし、そのほとんどが井上聡、小林寛氏共著の「人ありて・頭山満と玄洋社」を参考にさせていただいていることを冒頭心からお詫び申し上げておきます。(以下、敬称略で頭山とさせていただきます)


■第一話 勤皇と頭山満 
さて、明治維新を13年後に迎える1855(安政2年)年4月12日に、旧福岡藩士筒井家の三男として頭山はこの世に生を受けました。幼名は乙次郎、後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって、頭山満と改めるのです。

「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われていますが、あの安政の大獄で吉田松陰が亡くなったのが4歳の時、そして、坂本龍馬が奔走をして薩長同盟が成立したのが1866年、11歳の時、江戸から明治への激震の時代に、頭山の故郷、福岡藩も歴史に翻弄されていたのです。

もともと福岡藩は平野國臣に代表される「勤皇の志士」を数多く生んでいる地域でしたが、佐幕派と勤皇派の争いの末、1865(慶応元)年、(頭山11歳)勤皇派のリーダー加藤司書を代表とする140名以上が弾圧された筑前勤皇党事件によって、福岡藩の勤皇派は壊滅するのです。

その時に、高杉晋作を福岡亡命時に匿った女性勤皇家の野村望東尼(もとに)が、姫島に幽閉されたことはご承知のことだと思います。

福岡藩は実にこの事件によって、完全に「薩長土肥」の動きから取り残されることになってしまうのです。

文献では、当時の福岡藩の指導者が、優柔不断で、時代を正しく見ることが出来なかっただ為だと、簡単に指摘されているのが目につきます。しかし、考えてみれば、江戸末期にあった300近い藩のほとんどが、いずこに問わず「右往左往」していた時代なのですから、長州、薩摩に見られるような、「関が原の戦い」にまで遡る歴史意識をあくまで継承し続けた藩との違いはあまりにも大きいと言えるでしょう。

とはいえ、「武士の やまと心を よりあわせ ただひとすぢの おほつなにせよ」という、望東尼の歌に込められた思いが、滔々と福岡藩士に流れていたからこそ、その後の「福岡の変」や、近代日本史に異彩を放った「玄洋社の活躍」に繋がって行ったのだと思います。

1868年、五箇条のご誓文が宣布され王政復古、明治維新が成立します。この時、頭山14歳。歴史の変化に多感な胸を躍らせていたことでしょう。そして、いよいよ16歳になった頭山青年が、玄洋社にとって特筆すべき出会いをすることになるのです。


野村望東尼

1871年頃に、高揚乱(たかばおさむ)という男装の女医が「興志塾」を人参畑に開き、そこに、たまたま目の治療に立ち寄った頭山翁が、高場と塾の雰囲気に魅せられて入門するのです。

「一年の計は穀を植ゆるにあり、十年の計は樹を植ゆるにあり、百年の計は人を養ふにあり」 

野村望東尼の「平尾山荘」をたびたび訪ねていた高場は古学(論語、孟子、史記、三国志など)を中心に精力的に授業をしていたそうですが、他の塾では断られるような、乱暴な少年たちを好んで入門させたとも言われ、「腕白少年たちの巣窟」だったそうです。

「若いときは行き過ぎがあったほうがいい、それ位でないと将来国事を託すに足る人材に育たない」そうした発想に立てる大人が少なくなった今日ですが、高場は無欲で、塾生から謝礼も受け取らず、至誠、豪快、度を越すほど物に執着せず、少年たちに向っていったと言われています。

「教えは徹頭徹尾、実践だった」と晩年、頭山は懐かしく回想していたそうです。

それにしても、歴史とはそれ自体が「奇跡の連続」だといつも思います。

もし、高場塾に頭山が入門し、その豪胆な人格ゆえに、自然と頭角を表さなければ、玄洋社の創設メンバーとの熱い友情もなかっただろうし、その縁で、1876年の「萩の乱」への関与によって捕らえられることも、翌年に、尊敬していた西郷隆盛の決起を獄中で知ることもなかったことでしょう。


高場乱
まさに、「西南戦争」への、福岡藩士500名の決起(福岡の変)に馳せ参じることが出来なかったことが、地団駄を踏んだ頭山らにエネルギーを与え、玄洋社を生み出す原点になるのです。

「千年も二千年も年を経た神木が根元から折れて、どしんと大音響のした感じがした」と、悲報を聞いたときの思いを、頭山(22歳)は述べています。

そして、皮肉にも、西郷が城山で自決したその翌日に、頭山らは釈放され、すぐさま、博多湾に突き出た海の中道に「開墾社」を創設し、松林を伐採し田畑を開墾して、自給自足の生活を行いながら、心身の鍛錬に励む日々を送るのです。


西郷隆盛

敬天愛人

板垣退助

■第二話 自由民権運動への参加
ところが、歴史は「劇的」に展開し、頭山が鍬を持っている時間をそれほど許しはしませんでした。

1878年(明治11年)5月14日、紀尾井坂で、石川県士族らに大久保利通が暗殺されたことを、来島恒喜から聞いた頭山は、「板垣退助西郷隆盛に続いて決起する」ことを期待して鍬を捨て、慄然、土佐高知に旅立ちます。

ところが、板垣退助に会うと「近代国家を歩みだしたばかりの日本には、憲法制定や責任内閣制を実現させることが何よりも優先する」と、武力より言論で戦うことを、諭されるのです。

この時、頭山は「自由民権運動」に目覚め、歴史に乗り出す第一歩を踏みだします。


「立志社」の集会ではじめて演説を体験してみたり、全国の民権運動家や、特に植木枝盛らと交誼を結んだりと、4ヶ月近くも土佐に滞在して、「立志社活動」に熱心に参加し、活動のあり方を学んだのです。そして、9月には、大阪で開催された「愛国社再興大会」に出席して、ようやく福岡に戻り、なんと、その勢いで12月には「向陽社」を結成したのでした。

興志塾・開墾社時代から仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)が設立に尽力し、箱田六輔(第四代玄洋社社長)を初代社長としてスタート、その後は、福岡の豪商たちの支援も勝ちとって、翌年1月に「向陽義塾」を開校するという発展ぶりでした。

そこに、植木枝盛も頭山翁との約束で土佐から式典にかけつけ、3月まで講義、演説と協力し、その間にベストセラーになった「民権自由論」を書き上げるのです。
まさに、志に燃える頭山青年が<生き生きと自由民権運動を進めている姿が眼に浮かぶようです。
「近来ますます盛んにしてほとんど立志社の上に出でんとするの勢いあり」と、1879(明治12)年5月の朝野新聞は、当時の向陽社の活動が実に活発であったことを報じています。

今日では「自由民権運動」と言えば、立志社・愛国社のイメージばかりになっていますが、どうも戦後民主主義の源流となる自由民権運動に、「右翼・玄洋社」に繋がる団体が存在してはならないとの決め付けがあって、意図的に低い評価がなされて来たように思えます。

頭山が「わが福岡は憲政発祥の地なり」と表しています。

例えば、箱田六輔は「箱田がいれば西日本は大丈夫だ」と板垣に言わせるほどの大物的存在になり、「筑前共愛会」と命する17の郡から35人ずつ公選された委員で構成される「民選議会」まで設立、全国に先駆けて「民権伸張・国権回復」をスローガンに国会開設と不平等条約の改正運動を強力に進めて行きます。

また、平岡浩太郎(玄洋社初代社長)は、第三回の愛国社大会に参加して、土佐の主導権を重視する立志社に対して、ほぼ大会をリードする活躍をし、第四回大会でも愛国社の中で「国会期成同盟」が設立されるに際して、地方の立場を重んじた「筑前派」が、中央集権的な「土佐派」を牽引したと伝えらています。そうした事実から鑑みて、福岡を憲政発祥の地と称しても、自然なことだと思うのです。

さて、明治日本が富国強兵・殖産興業に突き進みはじめようとするこの頃、「沖縄県設置」を巡って日清両国の対立が表面化します。それに対して、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い、多数の応募者が集って大層武道熱が盛んになったと記録されています。その事が、自由民権運動に専心していた頭山の思いをアジアに向けるきっかけてとなります。

既に、24歳になった頭山は、突然、薩摩の西郷家を訪ねているのです。
「西郷先生に会いに来ました」と頭山。
「西郷はもうなくなったよ」と応対した家人。
「いえ!西郷先生の身体は死んでもその精神は死にません。
私は西郷先生の精神に会いに来たのです」
と、頭山青年は答えたと家人によって記録されており、西郷隆盛への思慕の念を髣髴とさせています。そして、福岡に戻った頭山は次の新しい舞台へと動きを進めて行きます。


■第三話 玄洋社の設立へ 
「玄海の怒濤、天を討つの勢い」
1979(明治)年12月に向陽社を改名、いよいよ「玄洋社」が結成されます。

初代社長は西南戦争の生き残りである平岡浩太郎、後に「藩閥政府と戦うにはまずは軍資金だ」と事業経営に乗り出し、炭鉱で財を成して、衆議院議員にもなった人です。社員は61名。例外なく誰もが西郷隆盛を敬慕している集団でした。

束縛がなく、きわめて自由な組織だったと言われており、そこから多くの「異彩を放つ人材」が育って行くことになり、近代史に大きな足跡を残すのです。後に、「玄洋社三傑」と称された、箱田六輔30歳、平岡浩太郎29歳、頭山満25歳の時でした。

翌年、正式に 届け出をされた、玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次のとおりです。

第一条 皇室を敬戴すべし。
第二条 本国を愛重すべし。
第三条 人民の主権を固守すべし

ところが、第三条の「主権」が問題になり、3ヶ月を経て「人民の権利」と変更することでようやく認可がおりたと言われています。

余談ですが、東条政権下に葦津珍彦が、頭山に「この憲則を今でも正しいと思われますか」と質問をすると、頭山は、おもむろに三章を暗誦した上で、「この信条は後世の孫まで守らせると誓ったものだ。おれの生涯に変わるはずがない」と断言されたと「筑前玄洋社史評論」に記しています。


玄洋社を設立した頭山は、翌年5月に、徒歩で福岡から東京に旅立ち、早稲田の近くに一軒家を借りて住みはじめます。そして、7月初めには「天下に人材を物色せん」と東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会っています。
頭山は走り続け、精力的に多くの人と論議し、思案した時代でしたが、そこでなによりも考えたことは、何処までも玄洋社の活動の基軸は「不平等条約の改正」にありということでした。

ところが、愛国社を改組した「国会期成同盟」は、民権派リードのもとに「国会開設」だけを請願するようになり、あくまで「条約改正」を大事とする、民権・国権一体派との間で路線対立が生じるのです。

しかも、政府は結社の活動を規制する「集会条例」を制定し、1881年には「国会開設の詔」を発布して、9年後に国会開設を決定したために、先手を打たれた民権運動は、目標を失って迷走し、自壊をしてしまいます。政府内部でも、「伊藤博文の巧妙な政略」に負けた、大隈重信が、野に下って「立憲改進党」を結成し、一方、板垣退助は「自由党」を設立することで、日本にもはじめて政党が生まれます。

(この三人が国会の正面玄関のホールに銅像として飾られているのをご存知でしょうか)



そうした背景のもとで、九州では、「結束した民権派」が、独自に「九州改進党」を発足させることになります。当然、玄洋社へも九州改進党からの強い誘いが来る訳ですが、頭山はあえて加盟をみあわせて、党利党略に明け暮れる民権運動に距離を置くようになるのです。

ここらあたりが、玄洋社にとって転機の時でした。

玄洋社史には「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」とあり、午前中は鍬を握って畑で汗を流し、午後からは勉学に励むという開墾社時代の日々に戻っていたようです。


■ 第四話 アジアとの出会い
1884年12月6日 日本と結んで朝鮮の近代化を図ろうと奔走していた金玉均の独立党」が、清国寄りの事大党からの主導権を握ろうとしたクーデター(甲申事変)を起こしますが、「新政府樹立」の発表まで至るものの、王妃の要請で清国軍が介入し、3日間で失敗に終わります。
金玉均は13日には命からがら長崎にたどり着き、福沢諭吉の支援で東京に入ります。板垣退助らは高知で義勇軍を組織し、犬養毅尾崎行雄でさえも実力介入を求め、福沢諭吉に至っては有名な「脱亜入欧論」を展開して、清との即時開戦を主張するのです。
     
福沢諭吉          犬養毅
「わが国は隣国の開明を待ってアジアを興す猶予なし、西洋の文明国と進退をともにし、支那朝鮮に接するの法も、隣国になるが故にとて特別の解釈に及ばず、西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ。われはアジア東方の悪友を謝絶するものなり」

頭山は興亜論に立っていましたので、福沢とは対極の考え方でしたが、1885年4月に神戸の西村旅館で金玉均と会い、支援を約束して500円を渡します。このことが契機となっていよいよ「アジア主義への道を歩み始めるきっかけとなります。


金玉均

頭山が金玉均と初めて会った
神戸の西村旅館(昭和初期の写真)
「神戸に金玉均に会いし、大いに東洋前途の風雲を詠じ、日韓これも同胞国なり互いに相提携し、相扶翼して覇を唱へざるべからずと互いに相許す百年の友の如し」 「玄洋社社史」この年、頭山30歳、15歳の峰尾(みねお)夫人と結婚。

1886年8月には清国北洋艦隊の艦船が4隻、軍事力を誇示するデモンストレーションで長崎港にやってきますが、その際5人の水兵が茶屋で暴れたことを契機に450人の水兵が上陸して、警察隊と市街戦になる「長崎事件」が起きます。
当然、日本の世論は激昂し、「清国に対する敵愾心が頂点に」(玄洋社史)達することになり、不平等条約改正反対運動の盛り上がりとともに、内外情勢は危険な雰囲気が醸成されて行きます。

そうした機運を受けて、1887(明治20)年5月には、冷え込んでいた民権派の大同団結の機運が生じ、大阪で「有志懇談会」が開催され、頭山も出席します。
ここで、はじめにで記した中江兆民と出会うのです。   
お互いに思想の違いを包容する人間力があり、頭山の宿に兆民が三日続けて訪ねて来て「毎日、ビールを半ダースずつ飲んでいた」と述懐しています。

そして、その年の8月、玄洋社の社長にもならなかった頭山が、「福陵新聞」という新聞社の社長に就任して、生涯で一度だけ肩書きを持つことになります。
既に福岡では「福岡日日新聞」が発刊され「民権伸張」の論陣を張っていましたが、「勢いにおされて毎月赤字を重ねる」と、後々合流して創立された西日本新聞社の100年史に記載されているほど、福陵新聞の紙面は活気に満ち売れ行きは好調だったそうです。

「天下のために働く犠牲的な人物を養成するのが目的たった。だから他の新聞社とは出発点から異なっている。
新聞のことなど分かるものは1人もおらんような始末でずいぶん無謀な企てだった」と「九州日報(福陵新聞改称)」50周年号に頭山の談話が掲載されています。


■ 第五話 民権運動からの脱却
「アジア情勢の緊迫」は玄洋社にも当然、強い動揺を与えて行きます。
この時期、頭山はひとり宝満山にこもって修行をしたと言われていますが、
不平等条約改正に淡白な民権主義だけでは、国家の存立は立たないと考え、「自由民権運動から脱却」するようになって行くのです。

やがて、「大日本帝国憲法」が発布され、34歳になった頭山は不平等条約改正反対運動の押しも押されぬリーダーとして活躍するようになります。その頃、松方正義内相、伊藤博文枢密院議長を訪ねて
「予は一個の頭山にあらず、日本国民を代表する頭山なり」と迫り、二人を改正反対に廻らせます。

そして、当時の黒田首相が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、1889年10月18日、実質的な責任者であった大隈重信外相が玄洋社の仲間であった来島恒喜に爆弾襲撃をされ片足を飛ばされる事件が起きるのです。
この行為で条約改正案も吹き飛びます。

「死を決すれば、胸にひとつもちりをとどめない」とその直後に来島は自決しましたが、大隈も「いやしくも外務大臣である我輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は感心する。若い者はこせこせせず天下を丸呑みにするほど元気がなければだめだ」
と、評して首相になって後にも墓参に訪れたという記録が残っているそうです。

「天下の諤々は君が一撃に若かず」と頭山は葬儀の弔辞で述べていますが、この頃の指導者や、在野の運動家たちの気迫がひしひしと伝わってきます。


来島恒喜
1890年7月には
第一回衆議院選挙(国税15円以上納税する25歳以上の男子約46万人が有権者)が行われ、福岡では8議席中3議席が「玄洋社系」で当選し、大阪では中江兆民も当選します。全体では政府側119議席、民党側171議席となります。

ところが、当時の予算の三割以上を日清戦争に向けての軍備拡大に充てていた山県有朋首相の案が「民力休養、地租軽減」を主張する民党に否決されそうになった際に、土佐派の29人が一転して政府に同調し予算案が成立するということが起きます。それを受けて政府は安定多数を確保する為に議会を解散し、品川弥二郎内相の号令で「選挙干渉」を行って民党を締め付ける方法に出るのです。

協力を依頼された頭山は松方正義首相に「やり出したら、どこまでも一貫せねばなりませぬぞ」と詰め寄り、「四千万(全国民)を敵にしてもやる」との回答を得たので、それを信じ、「白刀きらめき、弾丸飛ぶの修羅場、破壊党の横暴、凶器を用い数名に負傷せしめり(福陵新聞)」と表現されたような活動に乗り出します。

      選挙干渉時の頭山満
そして、第二回選挙が行われた結果、福岡では玄洋社が支援した候補が9議席中8議席と圧倒的な勝利を収めますが、全国的には政府側の思惑は失敗し、松方は引責辞任、頭山との約束を反故にしてしまうのです。

「民権と国権はもともと車の両輪」であり、補完関係にあり、国家なき民権も、民権なき国家も実際にはありえないと思います。しかし、時としてその「バランス」が問われる訳で、選挙干渉への徹底した協力が今日的には玄洋社の行動をより誤解に導いているようですが、その、2年後には上海で金玉均が暗殺され、さらに4ヶ月後には日清戦争が始まるという「時代背景」を考えれば、国力拡大のための予算案に反対する民党のあり方は(以前は清の対日政策を非難し主戦論を唱えていた)党利党略のために政府攻撃を行う、非現実的な存在として頭山には認識されたのでしょう。

当然のこどく、「軍備の充実」がなかったとしたら日本は「黄海海戦」にも勝てずに清国に敗北していたかもしれません。

戦後日本の平和ボケした今のわれわれの感覚ではとうてい及ばないところですが、明治日本が潜り抜けて来た「国家としての危機」の連続には、当時の民権主義では対応できなかったと、われわれも思うところです。

日清戦争に勝利した翌年、ドイツ、フランス、ロシアによる「三国干渉」によって中国の権益が横取りされた現実を見れば、「文明国人とともに弱肉強食の立場に立つ」と説き、「国の交際は修身論に異なり、国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではない。国家間の外交は力関係で決まる」との福沢諭吉の認識は正鵠を得ていたし、今日でもあまり変わっていない現実に、複雑な思いになります。

しかし、このときの深い政治への失望からか、その後、玄洋社は結社としての動きを見せなくなり、視界を内政から海外へと転じ、 頭山は自由民権運動の志士から脱却して「国士」という顔を持つと同時に、アジア主義への道を歩んで行くのです。




■ 第六話 孫文と頭山満
日清戦争の敗北で中国は列強の分割支配の餌食となり、腐敗も蔓延していた清王朝の落日はもはや明らかでした。そこで、1895年10月に孫文は広州での武装蜂起を企てますが、密告されて頓挫し、「銀一千両」の懸賞金を懸けられて日本に亡命することになります。

1897(明治30)年に、宮崎滔天の紹介によって31歳の孫文と42歳の頭山は歴史的な出会いをするのです。後の「救国愛民の革命の志は熱烈なものであった。かれは天下の財を集めて、これを天下に散ずるすぐれた能力のある人物であった。自分は四百余州を統治しうる英雄と信じた」
(葦津珍彦「大アジア主義と頭山満」)
と評価しており、この時の東京での住まいは犬養毅が早稲田鶴巻町に2000平方メートルの屋敷を斡旋し、その費用と生活費は頭山を通じて平岡浩太郎が出すといった支援をはじめたのでした。

そして、1899年には清国で外国人排斥を訴える「義和団の乱」が発生し、連携した西太后の独走で、日本を含めた列強との「北清事変」に発展し、「8カ国」が軍隊を派遣することになります。その結果、領土的野心を持ったロシアに満州が占領されるなど、清国は末期症状に陥ってしまいます。

   
  孫文      宮崎滔天

頭山満(前列右)と孫文(前列中央)が、1924年、神戸で最後の会見をした時の記念写真

1900年、孫文はこうした状況を革命の好機到来と見て、恵州で挙兵しますが、頼みとした日本からの協力が得られずに再び失敗します。日本は対ロシア戦略のもとに、1902年に日英同盟を締結、頭山も対露同志会を設立します。そして、1904(明治37)年には日露戦争が勃発するのです。
 
玄洋社は若者を中心に「満州義軍」を形成し、参謀本部と協力の上で満州の馬賊を組織、規律厳格にして民衆の支持を得、ロシアの背後を脅かすゲリラ戦で多くの戦果を挙げ、一時期は5000人にもなったと言われています。

  
日露戦争に勝利して今年は「戦勝100周年」となりますが、この歴史的快挙のアジアに与えた影響はまことに大きいものがありました。その後、中国からも約15000人の留学生が日本に押し寄せ、東京に孫文三民主義を指導理念とした「中国革命同盟会」が結成されるのです。

しかし、当時の日本は何処までも「欧化主義」であって、1909(明治42)年には伊藤博文がハルピンで暗殺され、1910年には韓国併合がなされます。

黒龍会内田良平は「内鮮人が融和されて見えるのはほんの表面だけの話、当事者はその民族よりもはるかに恥を知らず、義理を知らず、人情を知らぬ、文化的にも不逞無知なる官僚人種である」と語り、一進会の李容九に「いくら謝罪しても謝罪しきれない」「われわれは馬鹿でした。だまされました」と会話しているほどで、 侵略主義の権化と見られがちな玄洋社は、むしろ政府に危険視されながら「アジアの独立運動」を真摯に支援し続けたのでした。

1911年には辛亥革命が成功し、翌年孫文は中華民国臨時政府の大統領に就任します。頭山は犬養毅と中国に渡り会見し、長年の苦労をねぎらいあいますが、3月には孫文袁世凱に大統領の座を譲ってしまいます。その為に時間が出来た孫文は1913年の春に前大統領として来日し各地で熱烈な大歓迎を受けます。福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄り、懐かしい風景に感激ひとしおでしたが、 頭山は「今度の革命は膏薬治療。本当の切開手術をしないから、まだ諸処に吹き出物がするよ」と袁の動向を強く懸念していました。

一ヵ月後に中国に戻った孫文は、同志の宋教仁袁世凱の刺客に暗殺されていることを知って驚き、すぐに革命派を反袁で結束して立ち上がりますが、武力、資金力に勝る袁軍にすぐに鎮圧され、再び日本に亡命することになってしまうのです。

その頃の日本政府は袁との関係で、孫文の上陸を認めない方針をとっていましたが、 「こんなときこそ大いに歓迎するのだ」と頭山翁は犬養毅山本権兵衛首相との交渉を依頼し亡命をしぶしぶ認めさせたのでした。そして、当時霊南坂にあった頭山邸の隣家で孫文を匿い、護衛には軍事探偵として活躍し「玄洋社の豹」と呼ばれていた中村三郎(後の天風)らをつけ、最後まで支え続けました。
   
孫文は東京で中華革命党を結成し、第三革命後は中華民国軍政府大元帥に選出され、「先生はわが国の改革と東亜の交流事業に対して、30年来、一貫して努力しておられたのであって、わが国は多大な恩恵をこうむった。今後懸命に前進して恩に報いることを誓う以外にありません」 と頭山に手紙を送っています。


■ 第七話 アジア主義の挫折 
1915年には、孫文の紹介で国外退去命令を受けていたインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースとも会い、頭山は支援を決意、すぐに、新宿の中村屋へ匿い、後に相馬俊子と結婚を仲介、帰化をして、インドカリーを伝えられたことは有名な話ですが、ボーズは、講演活動などで走り回り、1941年にタイでインド独立連盟の大会を開くなど独立運動に邁進します。
「独立したら頭山先生をインドに連れて行きたい」がボーズの口癖だったそうですが、1944年に喀血して闘病生活に入り、翌年1月にインド独立の姿を見ることなく58歳で亡くなってしまいます。
そのボーズの紹介で、1923年に頭山は、アフガニスタンのプラタップと会い、歓迎会を開いて援助を約束します。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞を国王に送っています。
支援の対象はフィリッピン、ベトナム、エチオピアと、その輪を広げて行きますが、1924年の11月には孫文が最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見します。お互いに日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談でしたが、「中国東北部の権益」についての孫文からの申し入れを、頭山は断る形で別れることとなり、その後行われた神戸高等女学校での大亜細亜問題と題する講演で孫文「今後日本が西洋覇道の犬となるのか、東洋王道の干城となるのかは日本国民の慎重に考慮すべきことである」と演説し、歴史に言葉を刻んだことはつとに有名な出来事となりました。

寺尾亨、ボース犬養毅

アフガニスタンから訪れた
プラタップ(右)を励ます頭山満
この演説から4ヵ月後に孫文「革命いまだ成らず。同志すべからず努力すべし」
と最後の言葉を残して病没。1925年3月12日、58歳でした。
翌年、孫文の後継者として蒋介石