■第二話 自由民権運動への参加
ところが、歴史は「劇的」に展開し、頭山が鍬を持っている時間をそれほど許しはしませんでした。
1878年(明治11年)5月14日、紀尾井坂で、石川県士族らに大久保利通が暗殺されたことを、来島恒喜から聞いた頭山は、「板垣退助が西郷隆盛に続いて決起する」ことを期待して鍬を捨て、慄然、土佐高知に旅立ちます。
ところが、板垣退助に会うと「近代国家を歩みだしたばかりの日本には、憲法制定や責任内閣制を実現させることが何よりも優先する」と、武力より言論で戦うことを、諭されるのです。
この時、頭山は「自由民権運動」に目覚め、歴史に乗り出す第一歩を踏みだします。
「立志社」の集会ではじめて演説を体験してみたり、全国の民権運動家や、特に植木枝盛らと交誼を結んだりと、4ヶ月近くも土佐に滞在して、「立志社活動」に熱心に参加し、活動のあり方を学んだのです。そして、9月には、大阪で開催された「愛国社再興大会」に出席して、ようやく福岡に戻り、なんと、その勢いで12月には「向陽社」を結成したのでした。
興志塾・開墾社時代から仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)が設立に尽力し、箱田六輔(第四代玄洋社社長)を初代社長としてスタート、その後は、福岡の豪商たちの支援も勝ちとって、翌年1月に「向陽義塾」を開校するという発展ぶりでした。
そこに、植木枝盛も頭山翁との約束で土佐から式典にかけつけ、3月まで講義、演説と協力し、その間にベストセラーになった「民権自由論」を書き上げるのです。
まさに、志に燃える頭山青年が<生き生きと自由民権運動を進めている姿が眼に浮かぶようです。
「近来ますます盛んにしてほとんど立志社の上に出でんとするの勢いあり」と、1879(明治12)年5月の朝野新聞は、当時の向陽社の活動が実に活発であったことを報じています。
今日では「自由民権運動」と言えば、立志社・愛国社のイメージばかりになっていますが、どうも戦後民主主義の源流となる自由民権運動に、「右翼・玄洋社」に繋がる団体が存在してはならないとの決め付けがあって、意図的に低い評価がなされて来たように思えます。
頭山が「わが福岡は憲政発祥の地なり」と表しています。
例えば、箱田六輔は「箱田がいれば西日本は大丈夫だ」と板垣に言わせるほどの大物的存在になり、「筑前共愛会」と命する17の郡から35人ずつ公選された委員で構成される「民選議会」まで設立、全国に先駆けて「民権伸張・国権回復」をスローガンに国会開設と不平等条約の改正運動を強力に進めて行きます。
また、平岡浩太郎(玄洋社初代社長)は、第三回の愛国社大会に参加して、土佐の主導権を重視する立志社に対して、ほぼ大会をリードする活躍をし、第四回大会でも愛国社の中で「国会期成同盟」が設立されるに際して、地方の立場を重んじた「筑前派」が、中央集権的な「土佐派」を牽引したと伝えらています。そうした事実から鑑みて、福岡を憲政発祥の地と称しても、自然なことだと思うのです。
さて、明治日本が富国強兵・殖産興業に突き進みはじめようとするこの頃、「沖縄県設置」を巡って日清両国の対立が表面化します。それに対して、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い、多数の応募者が集って大層武道熱が盛んになったと記録されています。その事が、自由民権運動に専心していた頭山の思いをアジアに向けるきっかけてとなります。
既に、24歳になった頭山は、突然、薩摩の西郷家を訪ねているのです。
「西郷先生に会いに来ました」と頭山。
「西郷はもうなくなったよ」と応対した家人。
「いえ!西郷先生の身体は死んでもその精神は死にません。
私は西郷先生の精神に会いに来たのです」
と、頭山青年は答えたと家人によって記録されており、西郷隆盛への思慕の念を髣髴とさせています。そして、福岡に戻った頭山は次の新しい舞台へと動きを進めて行きます。
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