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人物と歴史
頭山満という巨人

戦後六十年を経過して 葦津泰國氏(葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』より)

 

 日本は明治維新以来、「尊皇攘夷」の大和魂と「八紘一宇」の精神を、もっと大切に育てて行くべきだった。  しかし、前述したように、維新後の政府は西欧に追随して、西欧亜流のコースを追い求めることになってしまった。  「八紘一宇」も「尊皇攘夷」も、私らの戦争末期の学校教育では、用語だけは残っていたが、全く別の意味にすり替えられていた。  しかし、そんな中で少なくとも日本は、西欧覇権主義への追随を、堂々と国の公約に掲げることはできなかった。  それは明治天皇が示された維新の国是があり、帝国憲法があり、天皇制度があり、そして政治や軍事はすっかり西欧流に急速に変わっていったが、国民の潜在意識の中に、明治維新の理想が根強く生きていたからである。  明治維新以降の日本の政治・軍事の実務は、維新の精神的理想を掲げた西郷隆盛が表舞台から去り、大久保利通・岩倉具視・伊藤博文山県有朋などの洋学派に移っていくが、国民の圧倒的支持を得ていたのは西郷隆盛であり、西郷隆盛亡き後は、その精神を継承して在野の支持を集めて動いた人々、中でも頭山満をあげなければならないと思う。
 
 
  明治の政治や外交・軍事などは、欧米流の合理主義派と在野の西郷隆盛いらいの在野民権派との押し合いの中に終始するが、この西郷隆盛精神の継承者としていつしかその信望を集め、明治、大正、昭和史の中で、維新の心を陰で支える巨頭として存在感を示したのが、頭山満という人物であった。  頭山は、筑前福岡に生まれ、当時日本各地で活動していた壮士の一人として、西郷の影響などを強く受けて活動していたが、西南戦争は偶々頭山が捕縛され入獄中に終始したので、彼は西郷と行動をともにすることができなかった。  戦争が終わり釈放され、西郷隆盛が、多くの部下や彼に共鳴してともに戦った全国の有志とともに散ってしまったことを知った彼は驚愕とする。
 
  この西南戦争の反動として、島田一郎らの大久保暗殺事件が起こると、彼は即座に板垣退助らと連絡を取り、同士とともに玄洋社を設立、民撰議員設立の運動、憲法制定運動、条約改正運動をはじめ、その後様々な問題で活躍を開始する。  頭山の活動はその人物と行動で広く全国に注目されるようになる。特に、条約改正問題に関する門弟来島恒喜の大隈外相襲撃事件は、頭山が、おのれの信念は何者にも屈せずに押し通し、またその頭山には、全幅の信頼を置き、生死を度外視してついて行く勇壮な壮士連中が多数いることを全国に知らせる結果になった。  頭山は単なる反権力の暴力主義者ではない。中江兆民犬養毅、大井憲太郎、三浦観樹、谷干城、陸羯南、杉浦重剛など、多彩な人々に人縁を持ち、明治以降の時代を生きる「尊皇攘夷」の武士として進退した。そして、頭山が首を横に振る問題は、政府といえども決定を躊躇せざるを得ない威圧を感じさせるほどの、在野屈指の存在になった。
 
  頭山は各種の国内の政治や社会の問題だけではなく、広くアジア諸国に目を向けて、諸国の独立運動にも大きな功績を果たした。  頭山は先に出た来島恒喜、内田良平、宮崎滔天、萱野長知、山田良政はじめ多数の門人を育て、日本に来て独立運動を志していた韓国独立党の金玉均、その同志であった朴泳孝、中国国民党の孫文、陳其美、戴天仇、蒋介石、インドのビハリ・ボース、チャンドラ・ボース、その他フィリピンやベトナムなどの独立運動家にも大きな支援を惜しまなかった。  かれらの多くは国を追われ、あるいは亡命して、国際手配を受けていたので、日本政府は彼らを国外追放あるいは逮捕して引き渡すなど、排除することを望んでいたのだが、頭山は直接彼らと接し、いったん応援すると決めたものに対しては、彼の同志や友人、弟子たちに命じて大いにそれを支援させ、政府の介入を牽制するだけの威力を持っていた。  頭山はまたアジアの独立運動家たちにも、多大な精神的影響を与えた。頭山満らの掲げる理想は「大アジア主義」といわれる。  それがどのようなものであるかは、今回紹介する葦津珍彦の『大アジア主義と頭山満』に詳しいのでここでは解説しない。
   
  葦津珍彦は頭山と同じ福岡に生まれ、少年時代から頭山に接し、頭山にかわいがられて、公私にわたり、格別の関係を持って接してきた。  葦津は西郷隆盛と頭山満、そして父葦津耕次郎を生涯の師として一生を過ごし、戦中戦後の活動を、「いま、自分がかく主張するのを、師が生きておられたらどう答えられるか」を常に自問自答して進退した。  そんな思いに私ごときが、軽々しく付け加えることは何もない。本論を読まれ、また幾つかの関連する物を読まれれば、頭山翁の心の底に流れていたものは、それこそ明治維新の日本から生じた「尊皇攘夷」の思想だということが見て取られると思う。  「大アジア主義」は明治維新の理想の延長線上にある。
     
  大アジア主義は西欧帝国主義の野望から、アジアの諸国を解放し、その国の民族が培ってきた独自の文化に根ざした国を作るために、日本が積極的に応援しようという純粋な使命感に基づいていた。  だが肝心の日本政府がいつの間にか維新の精神を逸脱して、西欧諸国の模倣に終始するようになると、国の方針と在野には生きていた日本人の姿勢とが対立し、それが今回の敗戦にまで?がって、日本の理想を見えなくしてしまった。
       
       

近隣諸国との間に横たわる相互理解の不足

       
  明治維新の精神でもある「大アジア主義」は、多くのアジア諸国の人々には理解され、それが幾つかの国では結実した。  終戦後に独立を果たし、ネール首相がインドを代表して頭山一門に表敬に来日した。  また、日本の国旗日の丸をならって、緑地に日の丸の国旗をつくった。  バングラディシュ、インドネシア、マレーシア、東南アジアの諸国などがその例である。  だが、少なくとも現状を見る限り、頭山満翁がもっとも重視して応援した中国、南北朝鮮などにはまったく理解されず、「大アジア主義」の思想までが、まるで日本のならず者の思想であったかの如く宣伝されている始末である。  その偏見が生ずる背後には、頭山翁を慕って集まった多くの「尊王攘夷」の大陸浪人の他に、日本には明治以降、個人の夢を大陸に求めた多くの大陸浪人があり、玉石混淆していた事実もあろう。  日本政府や軍部の動きに、在野の理想とは異種の「西欧的」ものがあったこともあるだろう。  日本国の動きも分析すれば、日本としては「やむを得なかった」との弁解もあるのかも知れないが、行動には異質な物が多分にあった。  また、中国や韓国・北朝鮮は、日本が米英ソに対戦で敗れ、頭山はじめ在野の日本人が支援した中・韓の独立運動家たちとは相容れない米英ソ連の後ろ盾になった人々のつくった政府であることも作用しているだろう。
 
  加えて明治いらいの日本のアジアを真の友と思って活動してきた人々の言動にも、「俺が支配してよい国を作ってやる」などの類の乱暴な発言もあった。  その本意とするところは、帝国主義などとは全く違うのだが、時代背景をみて読まなければ誤解を招く。  それをそのまま現代に置き換えて、言葉尻を捉えての解釈なども流行している。  これは西郷隆盛の「征韓論」に対する解釈に対する誤解にも共通しているが、最初におのれの結論があり、それに事実を当てはめる方式の論は有害である。  日本とこれらの近隣諸国の真の理解のためには、基本的にはお互いに、冷静で客観的な理解をしようとの共通の意欲が強く流れていなければならない。  日本といま、隣接している中国や、南北朝鮮との距離はきわめて近い。  しかし近いながらも歩んできた道のりはまったく違い、歴史を見ると、互いに共通する認識は以外にも薄いことが分かる。  互いにその違いを認識し、もう一度新しい視点で友好関係を見直していく。  そんな作業が是非とも必要なのではないか。ましてや今のように、彼らの国が国内政権安定のために、意図的に日本を悪玉に仕立てて国内の不安をそらし、また日本政府も、自国の歴史を無視し、安易に目先の小さな利害のために先人たちの心を平然と踏みにじるような状況にあっては、相互理解にはまだ時間がかかるといわざるを得まい。
 
 

西郷隆盛、頭山満の遺志を継ぐものは

 

 明治維新の日本が生んだ傑出した男、西郷隆盛の精神的な継承者・頭山満は昭和十九年、敗戦の一年前にこの世を去った。  そして精神空白に陥った我が国には、明治維新の理想をついで、日本人としての生き方を求めようという空気は今のところ強くはない。  形は過去と変わるだろうが、「大アジア主義」の精神的核となる「尊皇攘夷」の思想、「大和魂」と「八紘一宇」の精神が、ふたたび国内に充ち満ちてくることを期待しているのだが、戦後六十年、国民意識に変化の兆しは見えるが、まだアジアの理想を掲げて大きな影響力を発揮する指導者には恵まれていない。
 
    頭山満翁亡き後、頭山精神の継承者たちはどうなっているか。  頭山翁の生前に、弟子として活躍した人々はもう、在世しない。  翁の亡後、思想の精神的な継承者となると注目された翁のご子息方も相次いで世を去られた。  六十年という空間は大きい。いま、頭山翁の末裔として残るのは、翁の孫に当たる頭山立国、秀徳、興助の三兄弟となっている。  この三兄弟には長兄の統一氏がおられた。祖父に似て、シャープで鋭いセンスをもたれていたが、日本とタイの友好増進の仕事などをされ、私も懇意にしていたが、惜しまれつつも早世された。  次兄立国氏は、相次ぐ皇室誹謗文書の続発に、取締責任を持つ政府に対応を求める請願などで一緒に動いた経験があるが、いまはマスコミやスポーツ関係の仕事をしておられる。  三男の秀徳氏は東京で、実業関係の仕事で活躍中である。  末弟の興助氏が、最近は頭山満翁の抱いておられたアジアへの理想の復活に一役買おうと、アジア諸国と日本との友好関係再構築に力を入れ、また日常活動として有志を集めて「呉竹会」との研究会なども主宰しておられる。  最近お会いしたとき、今年は頭山翁の生誕百五十年にあたるので、是非その追悼をし、孫として、祖父の理想を夢に終わらせないために力を尽くしたいと語っておられた。  今後の活躍に期待をしたい。
 
  明治日本の精神は、それまで在野には生き続けてきたのだが、終戦を境にして、日本人が脱精神化したのに応ずるが如く、関心が消えてしまったような気がしてならない。  だがその結果、最近の日本と周辺諸国との関係を見ても、最も近く隣接した国が、実はもっとも相互理解に乏しく、遠い国になってしまっているような感がする。  終戦六十年、もはや戦後といって過ごしているのは許されない。  日本は紛れもないアジアの一国であり、独自の文化を数千年にわたり育み続けてきた国である。  日本人が再び明治維新のころのような情熱を取り戻し、アジアの同胞と深い友好関係を再び築き、隣国とも手をつないで、ともに明日に向かって栄えていくことを願ってやまない。
 

※葦津珍彦著『大アジア主義と頭山満』(葦津事務所刊)の葦津泰國氏の巻頭言より抜粋しました。


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